「庄和音頭」「新・大凧音頭」に登場します。
江戸時代後期の天保12年(1841)、浄信という僧が、各地巡礼の折に宝珠花の小流寺に宿泊した時に、その土地の人々を集め養蚕の豊作占いとして凧揚げの話をしました。「繭の値段が上がる」と「凧が(舞)上がる」の意味を掛けたのです。その占いを聞いた人々は、数十個の凧をあげて繭の豊作を占うというようになったと伝えられています。
その後、5月の端午の節句に周辺の男子出生のお祝いとして、各戸では子どもの名前、紋章を書いた大凧、小凧を作って、凧あげ祭りをしました。凧は次第に大きくなり、明治の初期には現在の大凧の半分くらいの大きさになり、中期には現在の大きさになりました。
「大凧あげ祭り」は「関東の大凧揚げ習俗」として、国の選択無形民俗文化財に選択されています。